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富津市

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あしあと

    市宝探訪(石造物)

    • [2013年3月18日]
    • ID:785

    淨信寺(じょうしんじ)の石燈籠(いしどうろう) -青木-

    淨信寺の石燈籠

     青木の淨信寺の本堂の前には一対の大きな石燈籠がある。この燈籠は飯野藩2代藩主保科正景(ほしなまさかげ)(1616から1700)が自ら再建した淨信寺に、元禄9年(1696)に寄進したものである。燈籠は花崗岩(かこうがん)製で高さ2m90cmを測り、基礎部分は六角形三段で唐草文様が浮き彫りされている。中台には12葉の蓮弁(れんべん)があり、火袋(ひぶくろ)には火口(ほぐち)のほか日月が彫られている。笠は6個の蕨手の渦巻きが大きく張り出している。富津市内では最大級の燈籠である。昭和58年市指定文化財。

    真福寺筆子塚(しんぷくじふでこづか) -小久保-

    真福寺筆子塚

     真福寺第18世宥慶(ゆうけい)和尚の墓石で、寺子屋に学んだ子弟たちが建立した筆子塚である。光背の形状は舟形で、僧形の坐像が浮き彫りにされており、総高135cm、幅43cmを測る。
     宥慶和尚は、江戸時代前期の寛永14年(1637)から明暦3年(1657)までの21年間真福寺に勤務し、寛文元年(1661)に69歳で入滅した。墓石の台石には「師の恩に報いるため、僧俗弟子等謹んで刻せしむ」の文言が刻まれており、僧俗の弟子(僧弟子とは寺で学んで将来僧になる弟子、俗弟子とは僧にならないで他の生業に就く弟子)たちが、法務の傍ら寺子屋師匠も務めていた和尚の恩に報いるために墓碑を建立したことがわかる。
     江戸時代前期の17世紀中頃、西上総の地にもすでに庶民・民衆の間に、向学の気運が起こっていたことを実証する石造物史料であり、僧俗の弟子たちが共に学ぶという寺子屋成立初期の状況を伝えている。

    像法寺(ぞうぼうじ)・石造宝篋印塔(ほうきょういんとう) -鶴岡-

    像法寺・石造宝篋印塔、石造層塔

     宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」という経典を納めた供養塔で、鎌倉中期から造られ始めた。もともとは五輪塔と同じく密教系の石塔であったが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになった。関東では鎌倉を中心に多く造られたが、鎌倉に近い富津地方でも建立されるようになった。
     像法寺(真言宗智山派)の宝篋印塔は、製作年のわかる在銘塔で県下でも最古段階に属するものである。相輪の大部分は欠損し、笠も2箇所が欠けている。塔身に彫られた銘文から、鎌倉末期の元弘(げんこう)3年(1332)に造られたことがわかる。昭和48年市指定有形文化財。

    像法寺(ぞうぼうじ)・石造層塔(そうとう) -鶴岡-

    像法寺・石造宝篋印塔、石造層塔

     石造の卒塔婆(そとうば)を石塔と呼ぶ。層塔とは三重塔・五重塔・多宝塔のように2層建て以上の仏塔のことであり、個人や集団がそれぞれの祈願を塔に託して造立したものである。像法寺の層塔は高さ1m67cmの五重塔で、表側に刻された銘文から、隣接する宝篋印塔と同じく、鎌倉末期の元弘(げんこう)年間に造られたものと見られる。第4・第5層の屋根隅が欠けており、上部の相輪も下方を残して欠落するが、年代のわかる層塔として貴重である。昭和48年市指定有形文化財。

    慈眼寺(じげんじ)・石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)、石仏龕(せきぶつがん) -笹毛-

    慈眼寺・石造宝篋印塔、石仏龕

     慈眼寺の墓地には、宝篋印塔2基と石仏龕2基がある。宝篋印塔は地曳家の墓塔で、向って右側が1m57cm、左側が1m49cmである。2基とも安山岩で造られ、基礎の部分に慶長7年(1602)の陰刻銘がある。石仏龕は石仏を納める厨子である。こちらは臼井家の墓塔で、右側が1m29cm、左側が1m52cmである。凝灰岩で造られ、方形の礎石の後部に一枚石を立て、前方左右に角柱を立てて空洞とし、その内部中央に石仏を安置する。昭和48年市指定有形文化財。

    松翁院(しょうおういん)・庚申塔(こうしんとう) -竹岡-

    松翁院・庚申塔

     中国道教の教えでは、人間の体内に三尸(さんし)という虫がいて、庚申の晩にその人の罪過を天帝に告げるという。庚申の夜は眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈念するようになったのが庚申信仰の始まりである。室町時代には庚申待ちをする講が生まれ、庚申講を18回続けた記念に建立されたのが庚申塔である。松翁院の庚申塔は合掌する仏像の下に三猿を彫り出したものであり、承応(じょうおう)2年(1653)の建立で、市内最古のものである。昭和58年市指定有形文化財。

    松翁院(しょうおういん)・四面石塔(しめんせきとう) -竹岡-

    松翁院・四面石塔

     松翁院の山門を入って左手奥に「四面石塔」がある。高さ2m39cmの笠塔婆の供養塔で、4つの面に「南無阿弥陀仏」の6文字が、楷書・ハングル文字・梵字・篆書の各書体で刻んであり、四海同隣の思想を示したものと考えられる。この塔は江戸前期の寛文10年(1670)、7代遵誉上人の時に檀主臼井八郎右衛門尉によって建立されたことが裏面に記されている。なおこの塔と同種のもの(1624年建立)が館山市大網の大巌院にもある。平成4年市指定有形文化財。

    興源寺(こうげんじ)の板碑(いたび) -東大和田-

    興源寺の板碑

     板碑は板状の石を用いた卒塔婆(そとうば)の一種として鎌倉時代に発生した供養塔である。「環(たまき)の大樟(おおぐす)」で知られる興源寺の本堂前に立てられている板碑は、砂岩製の脆(もろ)い材質のため3つに割れていたが、現在復原され、高さ1m10cm、最大幅26cmを測る。この板碑には阿弥陀三尊を表すと見られる梵字(ぼんじ)(種子(しゅじ))が刻まれており、願文等の判読は困難であるが、正長(しょうちょう)元年もしくは2年(1428から1429)の紀年銘があり、室町時代中期のものとわかった。昭和58年市指定有形文化財。

    御代原(みよばら)・宝篋印塔(ほうきょういんとう) -御代原-

    御代原・宝篋印塔

     御代原の岩見堂前の岩窟内に2基の宝篋印塔が安置されている。もともとは近隣の塚の腰という場所にあった塚から出土したもので、後に現在地に安置したと伝えられる。塔の高さは2基とも78.3cmである。塔の正面にはそれぞれ銘文が陰刻され、金剛界種子(こんごうかいしゅじ)が梵字で表されている。銘文の内容から、この2基の塔は、善擇禅門・明見禅尼という夫婦が、室町中期の応永3年(1426)10月に生前供養を目的として造立したと考えられる。平成4年市指定有形文化財。

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