あしあと
二間塚に所在する内裏塚古墳は、墳丘全長144メートルの前方後円墳で、千葉県最大かつ南関東最大の古墳である。この古墳の発掘は明治39年に行われ、後円部中央から2基の竪穴式(たてあなしき)石室が見つかり、石室内から人骨と銅鏡・刀剣類・農工具・金銅製胡籙(ころく)金具・鳴鏑(なりかぶら)などが出土した。また墳丘には円筒埴輪(えんとうはにわ)列がめぐり、人物埴輪も確認されている。5世紀中頃の築造と推定される。出土品の多くは、現在佐倉市の国立歴史民俗博物館に展示・保管されている。平成14年国史跡。
南関東最大の内裏塚古墳(5世紀)から人物埴輪(男子像頭部)が出土している。この埴輪は江戸時代に前方部南西側の周溝外周から発見されたものであり、国内の人物埴輪の中でも、仁徳陵古墳の巫女(みこ)形埴輪と並んで初期のものである。埴輪の造りは大きく、顔の表情も写実的であり、破損してはいるが、古墳時代の男子の髪型である「みずら」の表現も見られる。内裏塚古墳の人物埴輪はこの1点だけで、非常に貴重なものである。昭和48年市指定有形文化財。
内裏塚古墳には、甲・乙の2つの竪穴式石室があるが、東側の甲石室(長さ5.7メートル)に比べ西側の乙石室(長さ7.5メートル)の方が大きく、副葬品も豊富であった。その中でも注目されるものとして、9点の鳴鏑がある。鳴鏑とは弓矢の先端である鉄鏃(やじり)の根元に装着して、音が鳴るようにした装置で、鹿の角によって作られ、数個の穴があけられたものである。現物が残る例は国内でもきわめて少なく貴重な遺物である。2点が昭和48年市指定有形文化財。
小久保に所在する弁天山古墳は、墳丘全長87.5メートルの前方後円墳であり、内裏塚古墳に続いて5世紀後半に築かれた古墳と推定される。調査は石室の露出に伴って昭和2年に行われいる。竪穴式石室は長さ約5メートルで、中央部の天井石の両側には縄掛突起(なわかけとっき)が造り出されている。石室天井石に縄掛突起が付けられた例は全国的にも非常に珍しい。副葬品には鉄製の甲冑(かっちゅう)や刀剣の破片がある。当古墳は昭和4年に国史跡となり、昭和50~54年に復原整備が行われている。
大堀(青堀駅前)に所在する上野塚古墳は、墳丘全長44.5メートルを測る小形の前方後円墳であり、内裏塚古墳群の中では最も北側に位置する。現在は後円部の約3分の2と前方部の一部が残るのみである。昭和56年・62年に周溝の調査が行なわれ、須恵器(すえき)・土師器(はじき)の坏(つき)が出土している。墳丘中心部の埋葬施設は未発掘であるが、出土土器から5世紀末の築造と推定される。また墳丘の下や周辺からは古墳時代前期を中心とした集落跡も検出されている。平成4年市史跡。
下飯野に所在する九条塚古墳は、墳丘全長103メートルを測る前方後円墳であり、墳丘の周囲には全長約150メートルの二重周溝がめぐっている。当古墳の発掘は明治43年に行われ、後円部東側に長さ9.45メートルの横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の存在が確認されている。石室内から人骨数体分のほか、刀・剣・金銅製馬具類・銀製耳環(じかん)・銀製空玉(うつろだま)・金銅製空玉・水晶製切子玉(きりこだま)などが出土しており、6世紀中頃の築造と推定される。墳丘の高さは約7メートルで、内裏塚古墳の半分ほどである。昭和48年市史跡。
青木の稲荷山古墳は、墳丘全長106メートルを測る前方後円墳であり、周囲には全長202メートルの広大な二重周溝がめぐる。周溝を含めた規模では、古墳群中最大である。平成2年に確認調査が行われ、後円部東側に横穴式石室が開口することが確認されたが、石室内部の調査は行われていない。墳丘裾部には円筒埴輪列がめぐっており、家形・動物形・翳(さしば)形などの形象埴輪も確認されている。6世紀後半の築造と推定され、九条塚に次いで築造された。昭和48年市史跡。
下飯野の飯野陣屋内に所在する三条塚古墳は、墳丘全長122メートルを測り、古墳群内では内裏塚古墳に次ぐ規模の前方後円墳であり、周囲には全長193メートルの広大な二重周溝がめぐる。発掘は平成元年に初めて行われ、後円部東側に開口する横穴式石室の手前側部分から人骨3体分とともに、乳文鏡(にゅうもんきょう)・直刀(ちょくとう)・金銅製耳環(じかん)・馬具類・銀製空玉(うつろだま)・ガラス小玉・土製漆塗小玉などが出土した。6世紀末の築造と推定され、6世紀後半の古墳としては東日本最大である。昭和48年市史跡。
白姫塚古墳は内裏塚古墳群中に存在する直径30メートルの円墳である。この古墳の発掘は、記録に残るものでは最も早い明治25年(1892)に行われており、横穴式石室の中から、4本の飾り大刀(たち)、挂甲(けいこう=よろい)、銅鋺(どうわん)、帯金具(おびかなぐ)、金銅製耳環(じかん)、須恵器(すえき)など多数の副葬品が出土している。金属製品については発掘後に宮内庁の買い上げとなって、現在東京国立博物館に収蔵されるが、須恵器6点については、土地所有者の萱野家に保管されて、昭和48年市指定有形文化財となった。
横穴墓(よこあなぼ)とは、丘陵斜面の岩盤に穴を掘って造られた墓で、古墳時代の後期から終末期(6世紀後半~7世紀)に多く造られた。富津市には千葉県内では最も多い約800基の横穴墓が確認されており、その中でも大満横穴群では66基に上る多数の横穴墓が確認されている。大満横穴群の調査は昭和27年と47年に行われ、一部の横穴墓から船の線刻壁画(せんこくへきが)が確認されたほか、人骨や須恵器(すえき)・土師器(はじき)・直刀(ちょくとう)・鉄鏃(てつぞく)・鉄製釣針(つりばり)などが出土している。昭和55年一部が県史跡。
絹横穴群は、岩瀬川流域の丘陵南斜面に開口する横穴墓群で、総数11基が確認されている。このうち1号横穴の壁面から「大同(だいどう)元年」「許世(こせ)」の文字が、また10号横穴の壁面からは「木(き)」の文字が発見されている。「許世」「木」はそれぞれ畿内の古代豪族、巨勢(こせ)氏・紀(き)氏を示すものとして、被葬者との関係が注目される。また大同元年(806)は平安時代初期で、横穴墓が造られた時代よりはやや下るが、埋葬・祭祀(さいし)が継続していたことを物語っている。昭和41年県史跡。
やぐらは鎌倉時代に、丘陵の岩盤を掘りくぼめて造られた上流階級の墳墓で、遺骸を埋葬するための墓地と、供養するための仏堂を兼ね備えている。鎌倉を中心に内房地域にも多く分布している。恩田やぐらは、湊川上流の山腹に存在し、南東に向けて開口している。長方形で、横幅4メートル、奥行1.4メートルであり、内部には数基の五輪塔が立てられている。奥壁には龕と燈明穴が、床には納骨穴が、前面には溝がある。有力豪族の墓地と見られる。昭和63年市指定有形文化財。
岩見堂やぐらは相川上流の山腹に南に向けて開口している。富津市内のやぐらの中でもひときわ荘厳で規模の大きいものであり、横幅5m、奥行4.3メートルを測る。墳墓というよりも仏堂としての性格が強く、後世の増改築が認められる。左側の壁には五輪塔が4基浮彫りにされており、側壁から天井にかけては漆喰の塗られた跡がある。堂内に安置されている石仏には、寛文年間(1661~1672)の地蔵菩薩があり、江戸前期の建造と見られる。昭和63年市指定有形文化財。
飯野陣屋は江戸時代飯野藩の藩主保科(ほしな)家とその家臣たちの屋敷が存在した場所である。陣屋は江戸時代前期の慶安(けいあん)元年(1648)に初代藩主保科正貞(まささだ)によって築造され、明治4年(1871)の廃藩置県(はいはんちけん)によって第10代保科正益(まさあり)が飯野藩知事を免じられまで223年にわたって存続した。陣屋の面積は123,000平方メートルに及び長州(ちょうしゅう)徳山・越前敦賀(えちぜんつるが)とともに日本三陣屋の一つに数えられる。陣屋内は本丸・二の丸・三の丸に区画され、今もその跡が残る。昭和42年濠跡(ほりあと)が県史跡。
峯上城址は上後字要害(ようげえ)にあり、標高約120メートルの山丘を中心に築造された中世の山城で、天然の地形と湧水帯を巧みに利用している。東西と南面は自然の断崖で、北の緩やかな斜面の麓に追手門があり、ここから南に中城(二の丸)、本城(本丸)といわれる台地が続く。本丸には天満天神を祭る環神社があり、その周辺に井戸跡が残る。築城の年代は16世紀初頭頃と推定され、真里谷武田氏がここを本拠として里見氏と対峙したといわれる。昭和48年市指定史跡。