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あしあと

    小野友五郎

    • [2013年7月12日]
    • ID:2686

    小野友五郎

     小野友五郎(1817から1898)は、明治時代に大堀村(現富津市)で製塩事業を起こした人物である。友五郎(諱・広胖[ひろとき])は、文化14年(1817)に笠間藩士小守宗次の三男として生まれた。同藩の小野柳五郎の養子となり家督を継ぐ。弘化4年(1847)上総郷士赤井庄五郎の娘津多と結婚、嘉永5年(1852)、幕府天文方出仕となり、勤務の傍ら江川太郎左衛門英龍に砲術や軍学・オランダ語を学んだ。

     安政2年(1855)8月、友五郎は測量・航海術の精通を買われ、老中阿部正弘からの直命によって、長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。測量術の実践を16カ月学んだ後、江戸へ戻って築地の軍艦操練所教授方となる、万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための使節派遣が決定され、友五郎は艦長の勝海舟を補佐する航海長としてアメリカ合衆国へ渡った。文久元年(1861)軍艦頭取となり、異国船防備のための江戸湾測量を行ったほか、咸臨丸の艦長として小笠原諸島の測量にも携わった。

     維新後、友五郎は工部省に出仕、東京―横浜間鉄道敷設に従事した。外国を見聞して、我が国の食塩が粗製で、衛生上改善の必要があることに着目し、自ら製塩を行って改良を企てた。明治2年(1869)8月には東葛飾郡行徳村で、明治3年7月には市原郡松ヶ島村で試験を行い、確信を得て明治8年(1875)4月、大堀村における製塩場の開設を千葉県に出願し、実行に取りかかった。

     友五郎は、大堀村有地8,000坪を借り受け、独自の製法(蒸散屋を工夫、天日だけによらず製塩する法)により、明治13年(1880)から3月から営業を開始した。その設備は、浪除堤防270間(約500m)、蒸散屋(長さ20間8棟)など1万円余りの費用を要した。しかしその年10月3日の暴風雨によって施設は壊滅的な被害を受け、加えて明治14年1月には居宅類焼の災にあって、塩業は旧に回復することができなかった。友五郎は一部修復した新塩場を義弟広誠とその子栄助父子に任せて、自らは大堀を去り、鉱山業などで働いたという。

     そのような中にあっても、友五郎は塩業に対する熱意を失わず、広誠父子を通じて良質塩の製造に改良を加え、明治22年(1889)5月、農商務大臣井上馨から15年間の特許を与えられた。また明治25年(1892)に、その食塩は水産品評会で大日本水産会頭載仁親王から優等賞を受けた。小野友五郎は、明治31年(1898)、製塩改良に尽くした功績によって緑綬褒章を下賜された。同年6月29日に逝去、大堀明澄寺墓地に葬られたが、後に改葬された。戒名「観月院殿塩翁広伴居士」。

    【引用参考文献】

    • Wikipedia「小野友五郎」2013.5.14
    • 小沢平二郎「製塩業」『富津市史通史』1982.3第3章産業・経済の発達 第5節各種の産業 第2項

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