あしあと
島崎藤村は、明治5年(1872)3月25日、筑摩県馬籠村(現在岐阜県中津川市)に、父:島崎正樹、母:縫の四男として生まれた。生家は代々本陣や庄屋・問屋をつとめる名家で、父の正樹は国学者であった。明治14年(1881)に上京し、泰明小学校、三田英学校(現:錦城高校)、共立学校(現:開成高校)などを経て明治学院普通部本科に入学した。在学中に西洋文学・日本古典文学に傾倒し、キリスト教の洗礼も受けている。卒業後、明治25年(1892)に明治女学校の教師となり、翌年に北村透谷・星野天知らと雑誌『文学界』を創刊した。同年教え子の佐藤輔子を愛したため明治女学校を辞任する。
明治29年(1896)1月、藤村は兄嫁とともに房総へ旅に出て、明治女学校で同僚だった小此木忠七郎を大貫村小久保(現:富津市)に見舞った。この時藤村は、横浜から便船で大貫村へ来て、小久保から鹿野山を越えて小湊の誕生寺に遊んでいる。同年8月、忠七郎の世話で東北学院教師となって仙台へ赴任したが、1年で辞任した。明治30年夏、藤村は再び小久保にあった明治女学校の常宿で過ごし、初の小説「うたたね」を執筆した。
この明治29年・30年の小久保滞在中の経験が、後に長編小説「春」となり、明治41年(1908)4月から8月まで『東京朝日新聞』に連載された。「春」に先立って藤村は、明治39年(1906)3月に「破戒」を自費出版し、名実共に作家の道を歩んでいた。昭和4年(1929)4月からは名作「夜明け前」を『中央公論』に連載、昭和10年(1935)には日本ペンクラブを結成して初代会長に就任した。太平洋戦争中の昭和18年(1943)8月22日、神奈川県大磯町にて満71歳で死去し、同町の地福寺に埋葬された。
【参考文献】