あしあと
照姫(1832から1884)は、上総飯野藩9代藩主保科正丕(まさもと)の娘で、天保3年(1832)生まれ。母は青木・淨信寺に墓所のある側室静広院で、10代藩主正益(まさあり)の実姉にあたる。系譜には「凞」となっている。
天保13年(1842)、10歳で陸奥会津藩8代藩主松平容敬(かたたか)の養女となる。9代藩主松平容保(かたもり)の義姉にあたる。容保は美濃高須藩より会津藩の養子となった。弘化5年(1848)、16歳で豊前中津藩の大膳大夫・奥平昌服(まさゆき)の妻となったが、間もなく不縁になり、会津藩の江戸藩邸に帰った。
なお、富津市域の海岸部(富津・小久保・竹岡など)は弘化4年(1847)から嘉永6年(1853)まで江戸湾沿岸防備のために会津藩の領地となっていた。
慶応4年(1868)、新政府軍との会津籠城戦が開始されると、照姫は城内にあって600人余の婦女子の指揮を取り、続々運び込まれる傷兵の手当、食料の調整、敵弾の防火処置など毅然として活躍したという。会津開城後は坂下の妙国寺で謹慎の身となり、ここで越冬し、翌年の明治2年(1869)2月19日東京へ向かい、3月10日に東京着、青山の紀州藩邸(徳川茂承(もちつぐ))に預けられた。開城後の新政府から会津藩への伝達・命令は直接新政府からではなく、大方は飯野藩主保科正益を通じてなされていた。
明治2年(1869)5月18日会津藩謀反の首謀者として家老萱野権兵衛が一藩の責を負って飯野藩下屋敷で処刑された。照姫は次の歌を寄せた。
夢うつつ思いも分ず惜しむぞよ まことある名は世に残れども
同年12月3日、命によって照姫は飯野藩への預け替えとなり、27年振りに実家で起居することになった。照姫は晩年東山温泉へ湯治に行き、旅館向瀧にしばらく逗留したという。明治17年(1884)東京で死去。享年52歳。
【参考文献】『富津市史通史』第4編近世第10章第3節2「幕末の世相と動乱-飯野藩の動向」1982
参考資料
照姫を中心とした幕末の関係系図
飯野藩初代藩主の保科正貞を中心とした江戸時代初期の関係系図