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吉行淳之介

[2013年7月12日]

ID:2725

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吉行淳之介

 吉行淳之介(1924~1994)は昭和中期から平成初期に活躍した小説家で、代表的作品に『驟雨』(1954年)・『砂の上の植物群』(1964年)・『暗室』(1970年)などがある。また芥川賞・太宰治賞・野間文芸賞など多くの文学賞の選考委員も務めた。

 淳之介は大正13年4月13日、父:エイスケ(モダニズム詩人)と母:あぐり(美容師)の長男として岡山県岡山市に生まれ、東京麹町(現:千代田区麹町)に育った。淳之介が小学校低学年であった昭和7~9年頃、避暑のために竹岡村・金谷村(現:富津市)を何度か訪れている。この時の回想が、後年『鋸山心中』という短編小説となって発表されている。その一部を以下に引用する。

 「小学2年、7歳の夏休は、浜金谷から東京寄りの竹岡村に部屋を借りた。この同じ部屋で、8歳と9歳の夏も過した。この頃になると、私の記憶もかなりはっきりしてくる。房総西線は、上総湊、竹岡、浜金谷、保田の順で、今度の部屋は竹岡駅のすぐ傍にあった。この土地が気に入った私は、夏休になるとすぐに出かけ、土用波が立つ8月末までそこにいた。母や叔父が短期間、何度か訪れてきた。祖母は、この夏から避暑地にくることができなくなった。この3年間は、化け猫や火の玉は姿を見せず、それに替って男女が起す事件で賑かだった。その極端なものが、昭和8年の鋸山の心中である。鋸山は標高330メートルの低い山で、そこに登るのにさして苦労はいらない。山登りとは程遠く、ハイキングというよりむしろピクニックにちかかった。その鋸山の山頂のあたり、平たくひらけて草の生えた場所で、心中があった。学生とカフェの女給だっただろうか。2人とも絶命した。ポータブル蓄音機が草の上に置いてあり、「天国に結ぶ恋」というレコードが載っていた。」

 文中に出てくる竹岡駅は昭和5年(1930)8月に開設されており、駅ができて間もない頃であった。この時代は、上海事変、五・一五事件、小林多喜二の検挙、虐殺などが相次いで起きた暗い緊迫した世相であり、房総沿岸は要塞地帯指定で写真撮影もままならなかった。そんな時代背景でありながら、この作品には当時の竹岡周辺の、のどかで風光明媚な漁村風景が描かれている。

【参考文献】

  • 吉行淳之介「鋸山心中」『小説新潮』1988.9
  • 小沢 洋「鋸山心中と竹岡」『富津岬2』富津公民館東京湾学講座・富津澪の会2009.2

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