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市宝探訪(絵画・絵図)

[2016年8月23日]

ID:790

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会津藩士水泳(あいづはんしすいえい)の額(がく) -竹岡-

会津藩士水泳の額

 江戸幕府は東京湾の海岸防備を強固にするため、弘化4年(1847)、会津藩・松平容衆(かたひろ)に上総の守備を命じ、富津と竹岡の陣屋に藩士が在任した。海の防備が目的であるため、嘉永元年(1848)8月5日に藩士の遠泳訓練が行われ、辰の下刻(午前9時)に富津陣屋沖を出発して、海上約16kmを泳ぎ抜き、申の上刻(午後3時)に竹岡の白狐(びゃっこ)川河口に到着した。その模様を絵馬にして残し、三柱(みはしら)神社に奉納したのが「会津藩士水泳の額」である。昭和48年市指定有形文化財。

真福寺(しんぷくじ)・絹本著色清涼殿八宗論図(けんぽんちゃくしょくせいりょうでんはっしゅうろんず) -小久保-

真福寺・絹本著色清涼殿八宗論図

 清涼殿八宗論とは、平安初期に唐から帰朝した空海が真言宗を広めるにつれて、他宗から攻撃を受け、時の嵯峨天皇が清涼殿に空海と他宗の僧侶を集めて宗論を戦わせたものである。この絵は、その時空海が大日如来に化身して、真言宗でいう即身成仏を身をもって実証したという説話を絵画化したものである。細部にわたる華麗な彩色に特色があり、大和絵系統の作風である。作者は土佐光信と伝えられ、室町末期の作品と考えられる。昭和56年市指定有形文化財。

松翁院(しょうおういん)・釈迦涅槃図(しゃかねはんず) -竹岡-

松翁院・釈迦涅槃図

 涅槃とは俗世間にあって心身をかき乱すような一切の妄念、欲望、迷いから抜け出して円満な悟りの境地に達することであるが、多くは釈迦の入滅をいい、涅槃図という場合は、釈迦が沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で頭を北に顔を西にして横臥(おうが)して入滅する様子を描いたものである。この涅槃図は日本の浮世絵の創始者と言われる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が下絵を描いて、その父の縫箔師(ほうはくし)菱川吉左衛門が刺繍したといわれる大作で、万治(まんじ)元年(1658)の製作である。昭和29年県指定有形文化財。

富津浦裁許絵図(ふっつうらさいきょえず) -新井-

富津浦裁許絵図

 東京湾屈指の好漁場である富津浦は、古くから近隣漁村の羨望の的であり、そのために漁場争いが絶えなかった。この絵図は対岸の三浦半島・野島浦からの訴えに対し、幕府の評定所は「富津村の言い分が正しい」と認め、中間の1里は入会とすることに決めたもので、その約定を絵図に裏書した元禄14年(1701)5月の決裁書である。同図によって、その後永く富津浦の漁場を確定する証拠となった。富津埋立記念館に展示される。平成4年市指定有形文化財。

宝永(ほうえい)7年佐貫城絵図(さぬきじょうえず) -佐貫-

宝永7年佐貫城絵図

 戦国時代に房総武田氏(真里谷(まりやつ)氏)が佐貫城を築城し、続いて里見氏がこれを引き継いだ。さらに徳川家康が関東に勢力を張るに及んで、佐貫城へは徳川の有力家臣内藤家長が封ぜられたが、やがて転封されて、桜井松平氏・能見(のみ)松平氏・柳沢氏と次々に大名が変わり、幕府代官の支配下に属することもあった。宝永7年(1710)阿部氏が三河からこの地に移ってきた時、この絵図面を作り、佐貫城を整備築城することを幕府に願い出た。平成4年市指定有形文化財。

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