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富津市

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あしあと

    市宝探訪(墓碑)

    • [2013年3月18日]
    • ID:786

    保科正景(ほしなまさかげ)の墓 -青木-

    保科正景の墓

     青木・淨信寺の境内には第2代飯野藩主・保科正景の墓がある。正景は初代正貞の長子として元和2年(1616)に生まれ、寛文元年(1661)に父の遺領を継ぎ、大坂加番、日光祭礼奉行、大坂定番を勤めて、丹波国で5000石を加増され、合計2万石を領した。藩政にも大きな治績があったという。正景は元禄13年(1700)に85歳で没し、淨信寺に葬られた。歴代飯野藩主の墓は東京都杉並区の大円寺にあり、市内にあるのは正景の墓だけである。昭和48年市指定史跡。

    織本花嬌(おりもとかきょう)の墓 -富津-

    織本花嬌の墓

     織本花嬌は江戸時代中期から後期の女流俳人である。西川村の名主小柴庄左衛門の娘で、名を園(その)といい、富津村の名主織本嘉右衛門(かえもん)(砂明(さめい))に嫁いだ。花嬌は夫とともに江戸の大島蓼太(りょうた)の下で俳諧を学び、小林一茶とも親交があった。寛政6年(1794)に夫が死去すると、別邸の対潮庵(たいちょうあん)に暮らし、来訪した一茶を囲んで富津連の俳人たちと句会を開くこともあった。旅日記「すみれの袖」がある。文化7年(1810)に死去し大乗寺に葬られた。昭和32年県指定史跡。

    織本東岳(おりもととうがく)の墓 -富津-

    織本東岳の墓

     織本東岳は、俳人織本花嬌の曾孫にあたる。天保4年(1833)富津に生まれ、若くして江戸に遊学し、儒学と兵法を修めて、当時一流の学者たちと親しく交わった。慶応3年(1867)に帰郷して、富津の領主であった前橋藩に仕え、その後は飯野藩に招かれて、藩校・明新館の校長を勤めた。また明治5年(1972)には家塾を開いて子弟の教育に尽くした。優れた漢学者として多くの著書を残したほか、幕末動乱期の当地方の治安にも尽力した。昭和48年市指定史跡。

    小笠原氏の墓所 -西川-

    小笠原氏の墓所

     旗本小笠原氏は、桃山時代の天正18年(1590)から江戸時代後期の文化8年(1811)まで、7代221年にわたって富津・新井・西川・本郷村の領主であった。小笠原氏は三河国(愛知県)の出で、当地の初代領主信元は、徳川家康の関東移封に伴って、上総に2500石を領し、富津に陣屋を構えた。江戸後期になって、海岸防備のため富津が松平定信の支配下に入ると、人見に陣屋を移した。小笠原氏代々の墓が西川の正珊寺にある。昭和48年市指定史跡。

    北村角兵衛(きたむらかくべえ)の墓 -花香谷-

    北村角兵衛の墓

     北村角兵衛は別名栖原(すはら)角兵衛ともいい、代々襲名された。初代角兵衛・茂俊(しげとし)は紀伊国(和歌山県湯浅町栖原)の出身で、江戸時代初期に萩生村に移住し、「鯛かつら網」漁業を始めた。2代・俊興(としおき)は父の漁業を発展継承させた上、江戸に出て木材と薪炭(しんたん)問屋を創業し、材木置場として深川木場町の埋め立てと堀の造成も行うなど、江戸前の漁業振興と江戸の都市化に貢献した。俊興は宝永3年(1706)63歳で死去し、花香谷の円龍寺に葬られた。昭和48年市指定史跡。

    内藤家長(ないとういえなが)の墓 -花香谷-

    内藤家長の墓

     内藤家長は徳川家康に仕え、天正3年(1575)の長篠の戦い、天正18年の小田原の合戦で活躍し、その功によって佐貫城主に封ぜられ、2万石を領した。その後、慶長5年(1600)の関が原の戦いにも参加し、大いに戦功をあげた。そして佐貫城主としての在世中は、領地内の産業振興に力を注ぎ、当地方の発展に貢献した。内藤氏は家長の嫡子政長の代になって、元和8年(1623)岩城(いわき)(福島県)に移封された。家長の墓は旧勝隆寺(りゅうしょうじ)跡にある。昭和48年市指定史跡。

    松平勝隆(まつだいらかつたか)の墓 -花香谷-

    松平勝隆の墓

     内藤氏の後、桜井松平氏の松平忠重(ただしげ)が佐貫城主となったが、12年間で駿河へ転封となり、その後城主となって1万5千石を領したのが、能見(のみ)松平氏の松平勝隆である。勝隆は寛永12年(1635)寺社奉行として活躍し、また慶安2年(1649)の高野山の宗教論争を鎮定するなど、幕政に尽くした功績は大きかった。勝隆はこの地の善昌寺を勝隆寺(しょうりゅうじ)と改めて菩提寺とし、寛文6年(1666)同寺に葬られた。近くには内藤家長と後の城主阿部氏の墓所もある。昭和48年市指定史跡。

    阿部正身(あべまさちか)・正恒(まさつね)の墓 -花香谷-

    阿部正身・正恒の墓

     佐貫藩は能見松平氏の後、柳沢氏が継ぎ、その後は天領として幕府代官が交代で支配した。そして江戸中期から後期に藩主となったのが阿部氏である。初代正春は大多喜城主として1万6千石を領していたが、宝永7年(1710)2代正鎮(まさたね)の時に佐貫に転封となり、その後明治の廃藩置県まで阿部氏の支配が続いた。8代正身・9代正恒は幕末期の藩主である。正身は大坪山に砲台を築いて海防に努め、正恒は版籍奉還後も佐貫藩知事を務めた。平成4年市指定史跡。

    井上宗端(いのうえそうたん)の墓 -湊-

    井上宗端の墓

     井上宗端は幕末期の医師である。湊に生まれ、18歳のとき江戸に出て、漢方医学を学んだ。21歳で帰郷し、父祖の医業を継いだが、当時流行していた黄疸(おうだん)の治療にあたって西洋医学の優れていることを知り、これを学んだ。嘉永3年(1850)頃に流行した天然痘に対しては、牛痘(ぎゅうとう)による治療法を採用し、大きな効果を挙げることができた。当地方の西洋医学の先駆者としての功績は大きい。万延2年(1861)に77歳で没し、湊済寺(そうさいじ)に葬られた。昭和48年市指定史跡。

    岩野平左衛門の墓 -竹岡-

    岩野平左衛門の墓

     松翁院(十夜寺)の山門を入ると左側に地蔵菩薩立像があるが、これが義民岩野平左衛門の墓である。江戸前期の延宝年間、百首村(現竹岡)を知行していた旗本の秋元隼人正時朝が重税を取り立てたので、村民は非常に困窮した。時の名主岩野平左衛門は、敢然とこれに抗議したが、この行為が掟に触れるものとして、延宝8年(1680)47歳で処刑された。村民は平左衛門の犠牲的行為に感じて、「岩平大権現」として祀るようになった。昭和48年市指定史跡。

    諸岡太左衛門(もろおかたざえもん)の墓 -金谷-

    諸岡太左衛門の墓

     江戸中期の天明年間(1781から1789)に金谷村を治めていた旗本白須甲斐守(しらすかいのかみ)の下役たちは重税を取り立て、「鎌止め」「鉈止め」の布令を出して薪や炭の採取を禁止した。村民は困窮し、名主・村役らは採算にわたって嘆願したが、聞き入られないため、一農民の太左衛門は厳刑を覚悟で江戸麹町(こうじまち)の白須邸に直訴した。その結果、村民の生活は回復したが、太左衛門は投獄され、天明6年(1786)45歳で獄死した。金谷の華蔵院(けぞういん)にその墓がある。昭和48年市指定史跡。

    原口(はらぐち)照輪(しょうりん)生誕地 -川名-

    原口照輪生誕地

     原口照輪は江戸後期の文化12年(1815)に林半蔵の次男として川名に生まれた。林家は農業の傍ら酒屋を営み、原口屋と称したことから、照輪も原口姓を名乗った。9歳の時、成田山新勝寺で得度(とくど)し、京都智積院(ちしゃくいん)で13年間の研鑽を積んだ後、浅草正福院の住職となった。慶応3年(1867)、推されて成田山新勝寺13代貫主(かんじゅ)となり、寺院経営の建て直しを計るとともに、成田山公園の設立、道路や橋梁の改修などを行い、成田山中興の祖といわれる。平成4年市指定史跡。

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